文化的多様性を持つゆえの「沖縄らしさ」

琉球王国が誕生した1429年以前の歴史に関する研究も数多くあるが、やはり、1879年に沖縄県となるまで独立国として450年の歴史を紡いだ琉球王国の歩みは、「沖縄らしさ」を紐解く上で興味深いものとなっています。琉球王国時代に中国や日本、朝鮮さらに東南アジア諸国との交易を通じて、多種多様な文化を歓迎し、学び、融合し、成熟させてきたことが、沖縄独自の文化を育んだ土台になったといわれています。その文化の特異性は、ユネスコの世界遺産登録しかり、世界的にも注目されています。

1429年から1879年の450年間、沖縄本島南部を中心に存在した琉球王国。1429年に尚巴志という人物が各地の有力者をひとつにまとめたのがそのはじまりとされています。首里城(注:2019年10月31日に発生した火災で、城の象徴でもあった正殿を含む主要な建物7棟が焼失しました)を王国の中心とした琉球は、海洋国家としてさかんに中国や日本、アジア各国に出向き、交易の要衝として栄え、文化的な交流も深めました。このころの那覇の港には、海外から運ばれた物や外国人で溢れ賑やかに活気付いていたといわれています。世にいう大交易時代、ポルトガル人のトメ・ピレスがその著『東方諸国記』で琉球を「レキオ(Lequio)」と称し、独立王国として記しています。

 

日本が将軍を頂点とする江戸幕府を開闢してまもなくの1609年、琉球は薩摩藩(いまの鹿児島県)からの侵攻を受け、日本文化の影響を強く受けるようになり、特色ある文化を育てていくことになります。さらに、江戸幕府が終わり、日本が開国し明治時代を迎えると、450年間続いた琉球王国は処分され、琉球は沖縄県となります。

 

2000年には、その史跡群が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産として登録されました。登録にあたっては以下の点が考慮されました。

・琉球王国が広く交流、交易をして独自の文化をつくりだしたこと・グスクや御嶽(ウタキ)などが琉球独自の自然

・祖先崇拝的な信仰の場となっており、こんにちでも拝みをする人々が絶えず、現代においても文化的な伝統として活きつづけていること

・グスクなどを発掘調査することにより、 琉球王国の文化がどのようなものだったかが明らかになること

・かつて琉球王国として栄えた歴史と文化、その精神はいまも受けつがれており、それが「沖縄らしさ」を支えている。

 

その後日本が近代国家への道を歩み、西洋諸国と戦争を重ねるなか、沖縄も時代の大渦に巻き込まれていきます。太平洋戦争が終わりをむかえようとする1945年3月、沖縄にアメリカ軍が上陸。「鉄の暴風」と呼ばれるほどの激しい地上戦が行われ、戦没者は沖縄県民約10万人を含め約24万人にものぼりました。戦後、沖縄ではアメリカによる統治が27年間続き、その間に米軍基地が建設され、1972年5月15日の日本復帰以降、いまもなお存在しています。

【ユネスコ世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群】

今帰仁城跡 

〒905-0428 沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101

 

琉球に統一王朝が樹立(1429年)される直前の三山時代(北山、中山、南山)の北山を治めた国王の居城。1416年に北山が中山によって滅ぼされた後には、琉球王府より命じられ北山監守の居城となりました。今帰仁城址からは、良く晴れた日だと、琉球王国誕生にゆかりのある島として知られる伊是名島と伊平屋島、さらに与論島を望むことができます。緩やかな斜面に建つ長さ約1.5キロメートルの城壁は美しく優雅な様は、万里の長城を彷彿とさせます。

座喜味城跡 

〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-6番地

 

1420年代に有力な按司であった護佐丸によって築かれた城。北山が滅びた後にもその旧勢力を見張る目的で造営され、琉球王国成立の初期、国家の安定に重要な役割を果たしました。要塞城として規模は小さくとも、城壁や城門の石積みの精巧さや美しさは沖縄の城の中で随一といわれ、当時の石造建築技術の高さを物語る貴重な史跡となっています。

勝連城跡 

〒904-2311 沖縄県うるま市勝連南風原3908

 

琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利(あまわり)の居城。阿麻和利は、1458年に国王の重臣で中城城に居城した護佐丸を滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めたが大敗し滅びました。これにより首里城を中心とする中山の王権は安定しました。2016年、日本で初めて考古学者が勝連城址で古代ローマの硬貨を発掘。中国や他の東南アジア諸国との貿易を通じて入手したものと考えられています。勝連城がローマ帝国と直接関係があったとは考えられませんが、この発見は、琉球王国がいかにアジア諸国やさらに遠方の地域と交易関係を持っていたかを物語る歴史的発見となりました。

中城城跡 

〒901-2314 沖縄県中頭郡北中城村字大城503

 

阿麻和利を牽制するために、座喜味城主であった護佐丸が国王の命により移り住んだ城で、琉球王国の王権が安定していく過程で重要な役割を果たしました。石を組み合わせて積む「相方(あいかた)積み」や、城門をアーチ式にするなどの高度な石積み技術で築かれており、幕末の日本にやってきたペリー提督が派遣した探検隊は、この精巧な石積みを前に感嘆したといわれています。

首里城跡 

〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1-2

※2019年に焼失。現在再建に向け調整中。

首里城は三山時代は中山国王の居城でしたが、1429年の琉球王国統一後は、1879年に至るまで、琉球国王の居城として王国の政治・外交・文化の中心的役割を果たしました。

園比屋武御嶽石門 

〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志1-7 首里城公園内

 

第二尚氏王統第3代王の尚真(在位1477〜1526)によって創建された石門で、門の背後の樹林池は園比屋武御嶽と呼ばれる聖域となっています。門とその敷地は史跡「首里城跡」の一部であり、門は重要文化財に指定されています。

玉陵 

〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1-3

 

第二尚氏王統第3代王の尚真(在位1477〜1526)によって築かれた第二尚氏王統の陵墓。

近世日本の琉球地方において確立した、独自の石造記念建造物のデザインを示す貴重な事例です。

識名園 

〒902-0072 沖縄県那覇市真地421-7

 

1799年に造営された王家の別邸で、琉球独自のデザインが施された庭園です。王族の保養の場として使われただけでなく、中国皇帝の使者である冊封使を接待する場としても使われ、王府の外交面において重要な役割を果たしました。

斎場御嶽 

〒901-1511 沖縄県南城市知念久手堅270-1

 

第二尚氏王統第3代王の尚真(在位1477〜1526)が整備した国家的な宗教組織との関係が深い格式の高い御嶽。中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしました。斎場御嶽は、琉球地方に独自の自然観に基づく信仰形態を表す顕著な事例です。

なお、御嶽は聖地であり、今なお、沖縄の人々の信仰、生活、自然への敬いの祈りの場です。御嶽内ではルールを守り、立ち入り禁止の場所には入らないようにしてください。また、御嶽内にある石や岩を動かしたり持ち帰ったりすることはできません。ご理解くださいますようお願いいたします。

 

 

 

参考サイトおよび文献

【沖縄県 歴史概要

沖縄県の道路 PDFファイル(3MB)

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